農業問題研究会

令和4年度活動報告

律令制と万葉歌人

―1前編では律令制の立法過程を論じた。今回はその法の支配の過程を見る。「大宝律令」は多くの研究者が指摘するように同法は、古くは「倭」―「ヤマト政権」―「遣隋」―「遣唐」の貿易を通じて大陸の法の支配を日本流にアレンジして天智―天武―持統の三代を経て制定に至ったものと考えられる。又 日本文化の普及においては、幸か不幸か「白村江の敗戦」を機に、百済から百済朝廷の高官を始め多くの文化人や技術者が大挙渡来し、その数、100万単位の移住者がやってきて、いわゆる白鳳文化が開花したといわれる。大化の改新の頃の日本の人口は、せいぜい400万から500万人だといわれている。その頃の日本人には話しことばがあったが書き言葉つまり文字を知るものは朝廷の官人か朝廷から出向した地方長官、及びその関係の組織の宮人、或いは特定の豪族しか文字を知らなかったという。その意味では大宝律令の制定は日本国家並びに日本人の文化レベルを国際的に高めたといえる。この稿で扱う万葉集の発刊は日本人のみならず世界的にも日本語の発明と共に日本人の感性を磨き、日本語の美しさを発見し日本文学の礎となり仏教文化が日本人の精神文化の支えとなったことも否定しえない。

Ⅰ―2万葉文化の担い手達
*山辺赤人

万葉集といえば、小学生でも知っている山辺赤人である。赤人の魅力と言葉の深さは読めば読むほど難解でもあり、またその反面わかりやすい。ここでは彼の文学を到底表すことができない。それは万葉における偉大な功績が大きすぎるからだ。まず、彼の人生は、天智、弘文、天武、持統、文武、元明、聖武、淳仁の八代天皇の朝廷の歌詠みとして天皇に仕え、さらに政治面でも大きく天皇制の専制君主制度に貢献している。その人生、まさに奇妙奇天烈の一語に尽きる。第(一)の不思議、それはこの時代に97歳まで生きたことだ。当時の平均寿命が40か50そこそこだというのにだ。第(二)の不思議、万葉、歌壇の仲間は、地方長官の役人に朝廷から外されたというか、栄転というか、地方文官に飛ばされているのに、どうして彼だけ朝廷文官に残されたのか。これには万葉研究家たちの研究がある。それによると、赤人は大陸の薬学を学んでいた。その薬剤師としての知識が天皇制に大きく貢献した。その理由は、歴代天皇の競争相手が都合よく原因不明の死を遂げている、これは、赤人にとって、両刃の剣がその役割を演じていたと言えなくもない。

*山辺赤人と山辺郡(山武郡の由来) 万葉集の赤人は、実は2代目赤人である。初代は元奈良県宇陀郡(うだぐん)榛原町(はいばらちょう)の山辺郡の豪族であり姓を山辺宿禰(やまべのすくね)赤人と呼ばれ朝廷の官吏をしていた。壬申の乱にては革命派につき天智の子=弘文天皇を追討することになった。初代赤人はその軍勢の大将として指揮をとることになり房州の小櫃村に追った。そして天智軍の残党と大友皇子の首を刎ね、その首は塩漬けにされ―櫃(ひつ)―に入れられて天武軍に贈られたという。天智軍の戦死者は5千人、双方2万人ともいう。今でも天智軍の残兵が姓を代えて同村に残存するという。初代山辺宿禰赤人は天武朝より、その軍功行賞として「上総」の一部を拝領した。その地は大宝律令の適用を受けその行賞地の『郡司』となった。新法令の規定を受けその地名は、郡司の姓をとり勅命によって山辺赤人の「山辺」をとり『山辺郡』と命名され今日に至る。その父子の墳墓は、上総国山辺郡田中(現東金市田中)の農道の脇に佇む。郡庁は土気の縣(あがた)神社付近と伝えられ、その支庁跡と見られる木簡が、東金市滝台、県の畜産センターの畑から発掘された(県文化財センター所蔵)。

二代目赤人の登場

二代目赤人は父の葬儀の為に都から帰ってきた。早々に葬儀を終すと先ず市原国府の国分寺に『国司』をたずね、これまでのお礼をいい、帰りに市川の「国府台」の『国司』をたずね、葬儀の報告と挨拶を行った。その帰り際に、伝説上の「手児名の娘子」を詠んだ。 

「われも見つ人に告げむ葛飾の手児名が奥津(おくつ)城処(しきどころ)(巻三―四三二)
  葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名しおもほゆ(巻三―四三三)

歌に詠まれた手児名とは、市川に伝わる伝説上の美女であり、茨城の生んだ万葉歌人「高橋虫麻呂」によればこの娘は必ずしも処女に非ずと詠んでいる。又赤人も長歌においてズバリその本質を詠む。 彼曰く『帯解き替えて、伏屋立て、妻問いしけむ』と。これで手児名の正体をひっくり返している。そりゃあそうだろう。現に赤人は天皇の近親相姦を目の当たりにしているのだからかような伝説など信用しまい。古代より人間の欲望は畜生以下で倫理も糞もない。赤人の「田子の浦」は、父親の葬儀の帰路市川から富津へ抜ける田子の浦から富士を望んだ光景を詠んだものと伝えられる。 

*大伴旅人

旅人も百済人である。旅人は浪速に出向し防人の詠んだ句を万葉集にのせる選者官つまり万葉検閲官を務めた。最終的には持統、藤原不比等達が日本史や古事記の編集委員となってその校正を行った。その際にも大友皇子は瀬田橋の戦いで処刑されたことにしておいた。事実は房州の君津であった。この世紀の文書再生の組み合わせはあたかも天智と藤原鎌足のコンビの再来と揶揄され公文書の改竄は既にこの頃より行われていたことが証明されている。歴史の改竄は今始まったことではない。政権に都合の悪いことは残したくないのは人情だろう。だが文化とはそれを正すことにこそ権威のある公文書の存在ではないか。旅人は後、和銅三年薩摩の大隅半島暴動事件の反乱鎮圧、この軍功で従四位上中納言に昇官。養老七年長男の「家持」の誕生。この頃「新羅」「唐軍」の日本に対する侵略説が和らぎ「防人制」は中断となった。旅人54歳にして聖武天皇三年大宰府長官に昇進。天平二年朝廷より帰還令下る。

*大伴家持

天宝感宝18年家持、越中守に昇進。折り悪しく妻逝去する。家持23歳。その時の挽歌。

佐保山にたなびく霞見るごとに妹を思い出泣かぬ日は無し(巻三―四七二)

この後、多賀城城主となり中納言に昇格、然し彼の桜花爛漫の終焉は迫っていた。延暦(四)七八五年家持は藤原種継の暗殺容疑で検挙され彼の辞世句が残されている。彼は多賀城にて処刑され柩は隠岐島へ流された。

世の中は数なきものか春花の散りの乱(まがひ)に死ぬべき思へば(巻一七―三九六三)

(参考文献)

『山辺赤人』  (短歌新聞社)

『赤人の諦観』 (集英社文庫)

『万葉歌人の愛そして悲劇上下巻』(NHKライブラリー)

 

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